2016年07月17日

被害妄想は深渦する(2)

母親はスクールカウンセラーの「様子見ましょう」「待ちましょう」の指示に対して、「いつまで」と問うが「心理状態が良くなるまで」の答えに疑問を感じ、子どものひきこもり状況が悪化するばかりなので、心療内科、精神科、不登校専門のカウンセラーと称する大学教授等様々なところに相談にいく。


統合失調症の予兆という診断があり、早期治療すれば治ります。今すぐ投薬をしましょうと言う医師の診断を受けるが本人が受診しない。また、不登校特有の心理状態だからそのうち良くなります、カウンセリングを続けてください、そうすれば、自然治癒します。

いう様々な意見や回答に振り回され、こうも、ああもしなければならない。と、自分の考えを持たぬ母親の悩みは深くなっていく。


そのような母親を見て、本人は「自分のことをベラベラしゃべりあがって、個人情報の垂れ流し、自分の生きる道は益々閉ざしていく、口封じのために殺してやろうかという思いも強まる。


こんな人間に育てた両親が悪い、責任をとれ、と思う上に、自分のことをさらしものにしている母親・・・許せない。

両親を責めることで、自分を責めなくてよいので、楽と言うより、なにかスッキリした思いになる。


母親は自分では、もう、あなたを良くすることが出来ないから、専門家を紹介するから、そこで相談して来なさいと無責任なことを言う。自分を守りたいだけに、母親は相談に行き、自分の話をし、救われた気持ちになっている。その分、自分は傷つき、外に出れなくなっているのが分からないのかという思いが強い。


責めるような他人の目、自分の心をあざ笑うかのような目、醜い動物をみるような目、みな、思いこみかもしれないが、自分自身これ以上に傷つくことに耐えられず、自死するか、他人を抹殺するかもしれない。


俺をいじめた奴らは、大学生や社会人になる。

みな、胸をはって生きているのだろう。加害者が堂々と生き、被害者は死にまで追い詰められ、気が狂うような気持ちで生きる。精神科に行けば、立派な精神障害者として扱われるだろう。狂った社会である。


いじめは「犯罪である」という認識が学校と教師にない。

みな自分達の保身のために、いつの時代もいじめを隠ぺいする。


皆殺しにしたいという、感情を無理やり抑え、正義の味方スーパーマンとしての自分を内面に作り出し、深くキャップ帽を被り、目立たぬ恰好をして、深夜、外に出た、守護神としてのカッターナイフ握りしめて・・・。

posted by 牟田武生 at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月16日

被害妄想は深禍する(1)

中学生の時、無視やしかとされ、クラスの中でこころの居場所を教室で失い。担任教師からも原因は自分自身にもあるのではないかと言われ、汚物のような扱いを受け、蕁麻疹、吐き気、不眠に襲われ、スクールカウンセラーの「こころが回復するまで休みなさい」とのアドバイスに従い、不登校になった。


学校を休むことで、最初のうちは気が楽だったが、勉強が遅れる、わからなくなる、体力も低下してきた等、様々な不安に襲われたが、学校どころか、他人が怖くなり外出も出来なくなってしまった。


そのうち、級友は「負け犬」と笑っているだろう。一日中部屋で暮らし、家族以外話をしない、係わらない自分は現在を喪失し、それに続く自分自身の未来は閉ざされ、過去の嫌なことばかりが思い出され、自分を苦しめる。

なんとか、この状態を抜け出したいと思えば思うほど、自信喪失からくる「僕は何をやってもダメなんだ」と自己嫌悪の世界が拡がる。


そして、追いうちをかけるように、自分自身を決定的に追いやった担任教師の「原因は自分自身にもあるのではないか」言葉、色々、反芻してみるが、思いあたることはなにひとつない。


他人の目を気にし、気を最大限に使い、他人の迷惑にならないように、まじめに、控えめに、目立たぬように教室では過ごしていたが、夏休み前の学年末試験、数学でクラス一番の成績を取った時から無視、しかとが始まった。


夏休みが終わっても、当然のごとく、学校に行こうとすると、激しい嘔吐、下痢が起き、登校できない。学校生活を満足におくれない自分に何の価値もないと思い死のうと完全自殺マニアルという本を読むが、いざとなると勇気がなくできない。


被害妄想はどんどん深まり、渦のように深まっていく、隣の家のカーテン越しから、隣人が監視しているのでは、登校する小学生の話声が、自分を馬鹿にしている、あるいは、笑っているのではないかとか思えてくる。さらには、家人の話声は、精神病院に強制的に入院させる方法を話し合っているように聞こえる。


中学は押し出されるように卒業、皆、高校生なるが、自分はなにひとつ動けない。

置いてきぼりになった自分。


僕は、「人として生きてはいけない人間だったのかもしれないと」思うようになってから、時は走馬灯のように駆け抜けていった。同級生は高3の最後の夏休みをもうじき向えようとしている。おそらく、希望に満ちた自分の道をそれぞれ歩くための準備をしていることだろう。


posted by 牟田武生 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月11日

思想は日常性で決定する

私が20代の時に考えた言葉であり、自分の一つの指針にしている。

参議院選挙は終わった。

全体的には与党の圧勝であるが、東日本大震災の復興が思うように進まない東北地方、基地問題を抱える沖縄では日常の問題なので、野党に軍配が上がった。


アベノミックスへの評価、憲法改正とこれからの日本にとって非常に大きな問題でもあるが、投票率は戦後4番目の低さ、国民には関心がないのか?

いや、魅力的で実行力、信頼感が得られない立候補者がいないのが、その原因であると思っている。


選挙では良いことを(受けやすい)ことを言うが、その人の日常性や考え方、行動を見ていると、不言不実行の方が多い。


人を見る判断基準をどこにおくかとして、

「思想は日常性で決定する」

と考え、それを私自身の基準に置いた。


これは、なにも政治家だけではなない、経営者、管理職にもあてはまる。

良いことを言っても、行動が伴わなければ、その人は、それらの職業人としては失格である。

これから、都知事選、それを基準に有権者の方は考えた方がよいかもしれない。

posted by 牟田武生 at 04:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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